いつまでも 「無宗教です。」って答えたくなくて
4月も中頃。東京では数日前に桜が満開を迎えたようで、Instagramではタイムラインが連日お花見投稿で溢れていましたね。あー日本帰りたい。
お国が変わって、シドニーではイースター祭が近づいて来ています。
スーパーマーケットでは卵の形をしたチョコレートがこぞって売られおり、ご近所にはHappy Easterの旗を掲げているお家もあります。
さて、イースター祭と聞いても、キリストの復活祭?だっけ?くらいの知識しかなく。
ただバイトが休みになるという嬉しさばかりがこみ上げる週末になりそうですが。
そーいえば日本にはこういうお祭りないよなあ。
とふと考えてみたり。
宗教に関したもの、といえば日本人が海外から質問されて困る質問なんですね。
日本人は何を信じているの??
という純粋な質問にうまく答えられないんです。
「あー、何も信じてないよー。」
と答えていた時期もあったんですが、無宗教というとそれもまた違う気もして。
(海外みたいになにか信仰を持っているわけではないんだけど、それでも神はいると思うし...。無宗教では無いんだろうな..。)
という漠然とした思いは英語力の壁で伝えられず(お恥ずかしい)。
しかし、日本人としてこの手の質問にビシッとかっこよく答えたいものです。
まず、日本人は宗教と無関係なのか。
答えは明らかにNOです。
日本には現在数多くの宗教団体が存在していますし、歴史的に見ても宗教勢力は常にその力を世に示していましたもん。
平等院鳳凰堂、比叡山...。ふと頭に浮かんだ日本の遺産を見ても、それが宗教と密接に関わっていたのは明白。(と、高校日本史で習った記憶があります。)
明治維新や特に戦後の改革により、目に見える宗教儀礼は殆ど失われてしまいましたが、宗教観はしっかりとまだ私たち日本人の精神に残っているはずです。
例えば、お寺や神社、教会など神が宿る場所、神聖な場所と言われるものに足を踏み入れた時、私達は誰に言われるまでもなく声のトーンを落としますよね?
帽子被ってていいんだっけ...?
写真撮ってもいいのかな...。
なんて考えたりもしたり。
東京/明治神宮
ここで明らかなのが、日本人は決して宗教観に欠けているわけでは無いということ。僕たちは、そこにはなにか超人的な力が存在していることをしっかりと感じているわけです。
僕たちは『宗教』と聞いて何を思い浮かべるでしょう。
真っ先に浮かぶ例として、キリスト教とイスラム教がありますね。
それらが、僕たち日本人にとって特異に感じるのは、絶対的な神の存在と、宗教による生活規定です。
キリスト教、イスラム教共に唯一神(ヤハウェさんとアッラーさん)を持ち、それらを信仰する人々は特有の生活規定を持っています。
一部のキリスト教徒は結婚まで処女を守る。イスラム教徒は豚を食べない。などがそれにあたります。
この部分が日本人にとって『宗教』という概念に対し、ある種の特殊さを感じさせる原因でしょう。
多くの日本人にとって、一定の期間断食をしたり毎週日曜日に教会へ行ったりなど、考えられないことですからね。
まとめてしまうと、
『宗教』ってなんか特殊なものの気がするんです。
イスタンブール/ブルーモスク
しかし、日本にもしっかり神と生活規定が存在!
まず、日本国家神道で神はと言えば八百万の神として有名な彼ら。
日本を造った神がいれば、神々を造った神さえもいる。雨や風の神まで、考えられるもの全てに神が宿っているのです。
これは日本に四季があり、昔から気候の変化が絶えなかったことに由来します。
台風が来て、熱波に襲われ、雪に降られ。更には地震まで起こったら、自ずと人間は超人的な力に影響されていると思うより仕方ありません。
同じ様な気候を持つ国々では、自然発生的にアニミズム(全ての事象に神が宿る)信仰が広がるのかもしれません。カンボジアなどでもそうです。
なので私達の神に対する考えは非常に柔軟というか適当というか、野球の神様や受験の神様にいたるまで、ありとあらゆるものに勝手に(?)神を創り出してしまいます。
このせいで、キリスト教やイスラム教の唯一神という圧倒的な存在と比べた時に、私達にはそういう考えがないから、『宗教』がなんとなく遠い存在に感じるのです。
デリー/バングラサーヒブ寺院
生活規定にしても似たようなもの。
私達は仏教や儒教を海外(特に中国)から積極的に取り込むことで、これらの思想を脈々と日本に取り込んで行きました。
「そんな事してるとバチが当たるよ!」
と母親に口うるさく言われるのも、仏教の縁(全てのものは因果関係で結ばれている)から来たものですし、
日本の仕事観、学問における試験の重要さ、年上に敬意を払う、などといったものは儒教からもたらされたものでしょう。
和をもって尊しと...も中国よりもたらされた考えを日本風にアレンジして世に出されたものです。
そう考えると中国、韓国、日本は似た文化体質を持っていますよね。
韓国の就活と受験戦争は日本よりも遥かに過酷ですが...。
僕は、これらも広義に生活規定だと思っています。
ただ、(何度も言いますが、)キリスト教、イスラム教のそれと比べた時、私たちのものは特異さに欠けるので、これが特別なものだとは思えないんです。
といっても、海外からみたら私たちの敬語文化や勤労習慣は十二分に珍しいものでしょうけどね。
じゃあ改めて、私達の宗教とは?
個人的には、日本の宗教は僕たちの生活に浸透しすぎているため、もはや『宗教』として考えられなくなっているのだと思います。
ある意味、キリスト、イスラム教などの『宗教』からは次元を異にしたものであるということです。
僕たちが普段何気なくこなしている生活スタイルそのものが、宗教にとって形づくられたものなのです。
宗教をある共通の思想を持った人間の集団と考えるとするならば、それは『特別』な慣例を持つものに限らないのです。それは国としての範疇からさらに縮小し、自分の所属する部活、サークル、家庭にもなり得るんです。
確かにキリスト教やイスラム教と比べ日本の宗教には特異さがあまりありませんが、1億人を超える日本人が持つ思想 (思想というと少し大袈裟ですが、)は極めて普遍的なものであり、その点で宗教とも呼べるものなのではないかと思います。
ただ(、何度も言いますが)、日本人にとってはどうしても『宗教』はなんとなく特別な響きがするので、外から日本の宗教について聞かれると言葉詰まってしまうわけです。
日本人は日本の宗教を『宗教』だと思っていないのですから。
あと、この宗教は神道、仏教、儒教その他多くの思想を混合させたもので固有名詞を持たないことも、説明しにくい理由の1つでしょうね。
しかしこれは、あらゆる事象に神の存在を認める神道の考えだからこそ実現した体系でしょうね。海外だと別々の宗教が相入れることはなく、常にバチバチしていますから。
そういう意味で日本の宗教は、世界でも類を見ない寛容な宗教だとも言えるのでしょう。
ただ顕在化しにくいだけで、僕たちも宗教と共に生きているんです。
これからは
「僕には何の『宗教』もないな〜。」
ではなく、
「僕の生活にはひろーく、ふかーく宗教が染み込んでいるんだよ。」
と、胸を張って答えるようにします。
どうでしょう?共感していただけましたかね。
文中の『宗教』と宗教、この間にある2つの意味の違いをくみ取っていただければ幸いです。